月刊 三代目!!

2023.09.30

[月刊 三代目!! 003]壁にぶつかりながら、組織は成長。次の目標に向かって、邁進あるのみ。(2023年9月)

みなさん、こんにちは。株式会社三輝の代表、阿部拓也です。

連載『月刊 三代目!!』。3回目となる今回は、前回の続きで、私が三輝に入社してから今に至るまでの話をしたいと思います。半年間のイギリス留学の後、念願のアパレル関係の職についたものの、代表を務めていた父から「そろそろ、会社を手伝ってくれ」と請われ、悩んだ結果「せめてもの親孝行を」という思いから入社したことは前回、書いた通りです。

入社後、すぐに壁にぶつかります。私には何の仕事も用意されていなく、誰も仕事を教えてくれません。つまりやることがなにひとつない状態。周りへの声のかけ方も分からず、ネットサーフィンだけをするだけで、はじめの1ヶ月は過ぎていきました。おそらく「社長の息子」という肩書がゆえに、周りの従業員から、はれものに触るような扱いを受けていたんだと思います。

1ヶ月が経った頃「このままでは会社に何も貢献できない」と、自ら製造現場への異動を志願し、部品の組み立てを担当させてもらえることになりました。しかしそこでも問題が起こります。当時の工場には、出社時間の明確な決まりがなく、みんながバラバラに来て、それぞれにやるべき業務を終えれば、またバラバラに帰宅するといった状態。同じように私も、特に時間を決めずに働いていると、なぜか私だけがそのことを理由に叱責され、現場から追い出されてしまいました。仕方がないので、次は部品の配達に回ったのですが、そこもスムーズにはいきません。得意先の担当者から、遠回しに「配達を他の人に変わってほしい」と告げられたのです。理由は「社長の息子に来られても、言いたいことが言えない」というもの。もはや私が働ける部門がありません。

父からお願いされて入社したにもかかわらず、居場所がいっさいない状態で、父からのサポートもなし。そんな状況に、私は「いつかここを辞めないといけない」「手に職をつけておいた方がいい」と感じて、社会人向けのパソコンスクールに通い始めます。主に学んだのは、Web制作とキャドの技術でした。これは余談なのですが、その学校で講師を努めていたのが、現在、弊社の総務部を率いてくれている「エリコ」です。出会いから10年以上が経ち、縁あって一緒に働くこととなりました。

明るい性格で会社全体を支えてくれるエリコ。

そんな頃に、偶然か必然か、会社に大きな転換期が訪れようとしていました。きっかけは、代表だった私の父と姉とのささいなケンカです。その日、父がシャンプーの詰め替えボトルに、間違えてコンディショナーを入れてしまい、まったく泡立たないことに困った姉が父に向かって文句を言います。それに対して父も「だったらお前がやれ!」と憤りの姿勢で対抗したそうです。どこの家庭でも、これくらいのミスやトラブルはあるでしょう。しかしその一件が、父を、そして結果的に会社の未来までも変えることとなります。

父は次の日「詰め替えを楽にする方法を考えるんだ!」と意気込み、ホームセンターに行って、何ヶ月分あるのかと言うくらい大量のシャンプーを買ってきました。そもそも詰め替え用のリフィルは、とても機密性が高いもの。そこに金属加工に携わる中で培われた弊社の技術を組み合わせることで、“そのまま”使えるはず。父はそう判断し、そこから結果的に3年にも及ぶ開発が始まりました。金型代や工場の設備など、かかった費用は優に1億円を超えるはずです。途中の紆余曲折はここでは省きますが、そうして出来上がったのが、弊社の一般消費者向け商品として今なおヒットが続く『詰め替えそのまま』です。この商品に関しては、また別の機会に触れたいと思います。

発売当時のメディアへの取り上げられ方はものすごいものがありました。

さて、入社後、なかなか活躍の場を見つけられず、もどかしい日々を過ごしている中、私は2011年にパーソナルトレーニングジムに通い始めます。するとみるみるうちに体つきが変わっていって、体調もどんどんとよくなりました。さらに鍛えるだけでなく、食事や運動の勉強をするようになり、これを社員のみんなにもやってもらいたいと考えます。そのことを相談すると、父も快く承諾。そこでつくられたのが「トレーニングをするたびに400円を支給する」という制度です。これが弊社の特徴でもあるバラエティに富んだ福利厚生のはじまり。その他の福利厚生に関しては、詳しく紹介した前々回のコラムを見てください。

オフィス内にあるトレーニングルームはどんどん充実していきます。

さらに月日は流れ、また大きな事件が起こります。2014年8月のことでした。父の体に悪性のリンパ腫が見つかります。その日のうちに私は父に呼ばれ「社長をやりなさい」と告げられました。そこからは本当に急展開です。すぐに株主となる親族をすべて集め、諸手続きを済ませ、翌9月には私が社長に就任。全従業員を前にして、年に3回のボーナスを約束すると同時に、大きく頭を下げて「ついてきてください」懇願しました。

社長のポジションについてからの数年は、本当に大変な日々でした。まずは今だから言えることですが、帳簿と現場の数字に大きなズレがありました。おそらく父がいろいろなことを誤魔化しながら、経営を進めていたんでしょう。これに関しては、恥ずかしいばかりです。また当時は現場のスタッフが自由に部材などを発注できるルールになっており、誰も数字の管理ができていない状態。約8000万円相当の在庫品が残っていることも判明しました。

数字の問題だけではありません。前述の通り組織としての決まりがなく、出社時間もバラバラ。夜に工場に来て、鍵を開け、朝まで仕事をして帰るようなスタッフもいました。彼らの言い分は「やるべきことはやっているんだから問題ないだろう」というもの。しかしそれではチームとしての一体感はうまれません。また時代的な背景もありますが、仕事中のタバコはもちろん、お酒を飲みながら作業をする人までいる始末。心を鬼にして「そういうことはやめてください」と頼む私を「新しい社長に自由を奪われた」と非難し、罵詈雑言を浴びせられることも多々ありました。

そんな体力も気力も使い果たすまでに大変だった就任当時から約10年が経ちました。今では父の代から働く人は数える程度になり、スタッフの数も10名以上増えて、今に至っております。現在は組織としてもかなり成熟し、私が現場に介入せずとも、すべてが回るようになりました。責任を持って自分の仕事に取り組んでくれているスタッフたちには感謝の念に堪えません。

5年後の2028年には、創業60周年を迎えます。現状に満足にすることなく成長を続け、「売り上げ10億」「従業員40名」という目標に向かってまだまだ邁進していきたいという表明を持って、2回に分けて紹介した私の少しばかりの思い出話を終わらせたいと思います。

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